気になる色々情報発信&備忘録な日記です。

by mintlemon

カテゴリ:歴史( 9 )

隗より始めよ

今から2千年以上も昔の話、場所は中国、国の名は燕(えん)、君主の名は昭王。

当時のこの地は戦国時代。いわゆる群雄割拠、その様なご時世で燕はそんなに大きな国ではなかった。隣国の斉は孫臏(そんぴん:孫子の兵法でおなじみ)が軍事力を増強させて大国に・・・。

昭王の父は国政を子之(しし)にゆだねてしまったため、国は大いに乱れ大混乱。昭王が子之の悪政を打倒すべく軍を興すにも後ろに父が控えていては、母国に弓する反逆者になりかねない。そこで、隣国の力を借りようとして・・・。

一方隣国の斉の君主宣王(せんおう)は当時、この国に滞在していた孟子に伺いを立ててみた。孟子は儒学者。孔子に次いで有名な学者で、当時の国の在り方や君主とは、民とは、等々、今でいう政治や道徳・倫理・哲学に詳しいオーソリティー。

孟子は攻めても良いと言う。群雄が割拠しているこの時期のこの大陸では、評判が大事。如何な大国の王とはいえ、正義が無ければ軍事もママならぬ社会。

かりに武力にモノを言わせて他国を蹂躙できたとしても、世論が認めなければ繁栄はおろか存命も危ぶまれるほどに社会は文化を育んできていたのです。

宣王は大国斉の王として名を欲していたし、天下国家をその手に掴みたかった。善政を敷いて慕われたいとも思っていたのかもしれない。しかし大国の驕りもそこには本人も気付かぬうちに内在されて・・・。

つまり宣王は軍を出し、一応の混乱を納めたモノの新たな難問を生んでしまったのです。ツマリ、武官がその地、民を慰撫するという統治能力が無かったがため新たな混乱が・・・。

斉軍は暴発して燕の領地を蹂躙し始めたのです。その失敗に気付いた宣王は孟子に恥じつつもどうにも致し方無い時に、他方の大国趙(ちょう)の武霊王が介入してきて・・・。

我が国の一部を燕に提供するので、この混乱を治めるために斉軍をそこへ留めては如何かと・・・。ついでに空席になった燕の君主の座に推薦した皇族を潜り込ませようとして・・・。

この大国二国斉と趙は結局、燕の君主を殺害してしまうは、昭王を無視するは、・・・で政治・統治の上でも我名声を上げたいという思惑のみが先走った形で残ってしまい・・・。

すんでの処で、昭王が燕の君主に君臨することに・・・。昭王は聞く耳と訪ねる口は持ってはいたし、その心の内は屹立した海底と言うよりも砂地の様な性格だったのでしょう。

しかし父を殺された恨みは慙愧の念と一緒にこの事件でしこりとして残ってしまったのです。小国ユエの哀しい結末。国はグチャグチャにされて父を失い・・・。復讐の念に火を灯してしまうという苦い経験。

当時、客分として燕に滞在していた郭隗(かくかい)。飛び抜けた頭脳や思慮を持った偉人ではなかったのですが、全く人の機微を知らぬという人間でもなかった。昭王はその客分に問うた。

今は小さな国の力のない儂だが、何時しか我希望を叶えたい。隣国斉へのリベンジを果たしたい。如何にかならぬかと・・・。

郭隗は応えた。世界の偉人を招聘して国を富ませ、力を付けるしか方法は無いと・・・。そこで、先ずは、「隗より始めよ」と・・・。

昭王は一瞬、ムッとしたがその理由を伺っていくと・・・。コンナ能力しかない私を厚遇して礼を尽くす昭王なら・・・と知った賢者なら何をしても燕に集まってくるハズだと・・・。

果たして黄金台が設けられ、この隗の下に楽毅が現れて昭王の念願は叶うのです。

当時の帝王学には、帝者・王者・覇者というヒエラルキーがあって、「帝者は師と共にあり、王者は友と共にあり、覇者は臣と共にあり」というお話しがあったという事です。

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by mintlemonlime | 2017-01-08 22:17 | 歴史 | Comments(0)

今昔物語 巻第二十七

冷泉院水精成人形被捕語第五(れいぜいのいんのみずのたまひとのかたちとなりてとらえらるることだいご)

今は昔、陽成院がお住まいになっておられた所は、二条大路の北、西洞院大路の西、大炊御門大路の南、油小路の東の地の二町であった。院がお隠れになってからは、その地所の真ん中を東西に走る冷泉小路を開いて北は人家になり、南の町には池などが少し残っていた。

その南の町に人が住んでいたことのある夏のころ、西の対屋の縁側に人が寝ていると、身の丈三尺ばかりの翁が現れて、寝ている人の顔あたりをなでた。不思議に思ったが、恐ろしくて、どうにもできないで空眠りをして横になっていたところ、翁はそっと立ち上がって帰って行った。

星明りにすかして見ていると、池の汀まで行ってかき消すように見えなくなった。池はいつ水を替えたかわからないくらいなので、水面には浮草や菖蒲が生い茂り、気味悪く恐ろし気である。そこで、さては池に住む妖怪であろうかといよいよ恐ろしい気がしていると、それからも、夜な夜な出てきては顔をなでるので、それを聞く人はみな恐れおののいた。

すると、一人の腕自慢の男がいて、「よし、おれがひとつ、その顔をなでる奴をきっと捕えてみせる」と言い、その縁側にただ一人苧縄(おなわ)持って伏し、一晩中待ったいたが、宵のうちは現れなかった。夜中も過ぎたかと思うころ、待ちかねて少し〔まどろんだ〕ところ、顔に何やら冷たいものがさわった。

待ちもうけていたところなので、夢うつつの間にもはっと気がつき、目をさますや否や起き上がって引っ捕らえ、苧縄でがんじがらめに縛り上げて欄干にゆわえつけた。そして人を呼ぶと、みな集まって来て、灯をともしてみた。見れば、身の丈三尺ほどで、上下とも浅黄色の衣を着けた小さな翁が、今にも死にそうな様子で縛り付けられ、目をしばたたいている。

何をきいても答えない。しばらくして、少しほほえんであちこちを見回し、か細い情けなさそうな声で、「盥に水を入れて持って来て下さらぬか」という。そこで、大きな盥に水を入れて前に置くと、翁は首を延ばして盥に向かい、水に写る姿を見て、「わしは水の精ぞ」と言い、水の中にずぶりと落ち込む。

とたんに翁の姿は消えうせた。すると、盥の水かさがふえて縁からこぼれ、縛った縄は結ばれたまま水の中にあった。翁は水になって溶け、消えてしまったのだ。人々はこれを見て驚き怪しんだが、その盥の水をこぼさないようにかかえて、池に入れた。以後、翁が現れて人をなでることはなくなった。これは水の精が人になったのだ人々は言い合った、とこう語り伝えているということだ。

(日本古典文学全集 小学館 より) 
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by mintlemonlime | 2017-01-05 16:24 | 歴史 | Comments(0)

河合継之助

幕末の長岡藩の一武人。幕末の長岡とは譜代大名が統括していた地域で、戦国時代には謙信や信玄の活躍した地域のイメージがあります。

江戸時代、ここには新潟湊があって北前船賑やかな折には、上方との物流も盛んで、領内の田地の改良・新墾田開発も成功したため、実質の石高は公開されていた石高以上に優秀な地域だったと・・・。

イワユル幕末、長期に安定していた徳川幕府も晩年は、経済的な不具合や下層武士達の励起、海外からの刺激に抗いきれず、帝まで担ぎ出されてイヨイヨ支配階級の交代を余儀なくされる時期が刻々と迫って来て、この時代の老害状況が露呈していくプロセスのお話しは、今でも多くの書物や研究で興味深く知らている歴史のハイライトですネ。

先の戦国時代のエネルギッシュなイメージとは裏腹にスタティックにつまり、一見安定していたイメージのある徳川300年も、その開幕当初、大阪城が炎上瓦解して行く様に、今回は幕府が維新にとって代わる頃、長岡藩は錦の御旗を掲げて北上してきた官軍には半ば、強引に佐幕派と色分けされて、結果的に北越戦争へ突入すると・・・。

継之助は若い頃から武人として藩を守り、当時の正義を貫く熱い心を持って勉学し藩政にも深く関わって行く様な男だった。

彼の才能は海外の火力にも殊の外、敏感で有事迫る空気にも敏感に感応して、当時日本に三つしかなかったガトリング砲を始め、アームストロング砲や最新式の火器を、当時は既に貧窮していた財政を立て直してしまった辣腕で短期間に掻き集め、藩内の軍事育成にもその熱意を注ぎ込みました。

官軍にも幕府にも中立で維新をやり過ごしたかった彼の理想は、津波の様な時代の流れに飲み込まれるかの如く、黒白の烙印を押されて・・・。

彼への世間の印象は今尚、賛否両論なれど御本人は体力・武力よりも実利を第一とする読書派で勉強家であったと・・・。好戦的などと揶揄される場合もあれば、藩を守るために忍耐を重ね最終的に致し方無く武力へ訴えること止む無しの道を選ばざるを得なくなってしまったとも・・・。

この戦争で負傷した傷が素で継之助は、若干40年の生涯を閉じたのです。

埋もれた英雄、士の一人、河合継之助のお話しです。


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by mintlemonlime | 2016-12-18 05:10 | 歴史 | Comments(0)

論語

論語とは、孔子の残した言葉を弟子たちが編纂したと言われるイワユル、キリスト教でいう聖書の様な書とでも言いましょうか・・・。

「温故知新」、ふるきをたずねて新しきを知る、とか、「君子は豹変す」などなどの故事が有名ですネ。

孔子はキリストが産まれる以前の中国の人。

彼の生国では時に否定されたり、肯定されたりの評価がアップ・ダウンの激しい偉人です。

今から2500年以上も昔、彼は勉強しましょうと奨励します。

その内容は礼・楽・書・その他。

礼とは簡単にいえばコミュニケーション能力の勉強。

楽とは音楽を嗜む事、イワユル芸術を嗜む・・・?

書とは文字を知り主に歴史を勉強する事。

先ずはこれらを勉強しましょうという事ですネ(^◇^)

その内容はわが国では江戸時代によく研究されて、士族の学問として広がりました。

当時の政治に都合の良い学問だったとも言われています。

また論語に対して老子思想のイワユル道(タオ)、ツマリ儒教:道教の対照的なお話しも色々な話題のタネの一つ。

規律的な儒教に対する無為の思想が道教という図でしょうか・・・。

加えて孔子はキリストの様にその出生が貧しく賤しいという事でも有名です。神・天はその様な人間に大いなる使命を授けるモノなのでしょう。

今尚、彼らの影響から免れ得ない私たちとでもいえる様な気がします。つまりは無意識の内に私たちの常識の一部になっていると・・・。

孔子は学問を全うした偉人としての姿が有名ですが、身長は2mを越え少々出っ歯で若い頃は、武人としての能力にも長けていたそうです。

体格も立派な聖人でしたが、斉の宰相、晏子にその入国を拒否され就職に失敗した事もあったそうな・・・。

ちなみに晏子はその体躯が子供の様に小さな男だったと・・・・。隣国の偉人たちはその容姿も際立っている方々が多い様です。

逆に眉目秀麗な方々は、ネガティブな故事を遺したヒトが多い様です。だからなのか、彼の国の絶世の美女には悲しい結末が・・・?

さて、論語には現代でも色あせないお話しが多々あるのですが、漢文だからなのかチョッピリ説教的な印象で、中々そのままでは咀嚼しずらい一面もあるような気がするのです(^◇^)

子供が大人になる時、社会性を勉強するには論語で、世間をある程度渡り歩き、世間との繋がりを勉強するには道教という雰囲気を感じたりもするのですが・・・。


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by mintlemonlime | 2016-12-04 10:41 | 歴史 | Comments(0)

咸臨丸

最初の海外渡航は、幕末に幕府が敢行した渡米が有名です。

当時の日本は攘夷派と開国派、国学派と蘭学若しくは洋学(蕃学)派という様な、マァ大まかに言えば、二分された世論が吹き荒れていました。

大老、井伊直弼が幅を利かせ始める中、どうにかこうにかこの作戦は実行に移す事に・・・。
渡航に使用する船は、咸臨丸。一応、軍艦です。

その船の乗組員で有名どころと言えば、勝海舟、福沢諭吉、木村摂津守(せっつのかみ)、ジョン万次郎こと中浜万次郎でしょう。

この船は、木造の帆船。動力はあるものの、当時は油を焚いて走るのではなく、石炭を燃やして水蒸気によるイワユル蒸気船。しかも、スクリューなんぞはございません、当時はまだ・・・。

彼ら以外にも、米国から日本に測量にやって来た米国人、十数名も乗船することになりました。彼らはソモソモ、乗って来た船を座礁させて幕府に保護されていた身の皆様でした。

幕府サイドは彼らの技量を以って咸臨丸の渡米を確実なものしたかったのです・・・が、この話を聴いて憤慨この上もないのが、艦長海舟を筆頭に乗組員の面々だったのです。

何故なら、海舟は有志を集めて、海外渡航できる船乗りを海軍操練所で鍛え上げ、彼らと共に太平洋横断を成し遂げたかったからなのですネ。ソコに矜持と日本をショって立つ気概を持って、命懸けで、コレを遂行しようとしていたからなのです。

摂津守は咸臨丸のいわゆる提督。

穏便な性格の武人ではありますが、彼にしてもその幕府の行為が侮辱として映ったのですネ。
当然ながら、海舟の腹のうちも想像できるワケです。

でもって、心配なので彼のいる艦長室へ。ソコは蜂の巣を針で突いたような騒ぎ。

海舟は部下達と話し合っています。彼らはこの様な日のために、そして海舟と共に来(きた)る海軍設立のために、日々精進してきた海の男たち。

海舟は言います。

「お前さんせえしっかりしてれあ、おいら、ここんところあ、大人しくしているよ。みんなもじっと我慢をして、腕で行け、頭で行け、肚(はら)で行け、太平洋の真ん中であ奴らの胆をとってやるんだ。いや、あ奴らばかりじゃあねえ幕府の奴らの眼をさまさせてやるんだ」 (新潮社 新潮文庫:勝海舟 第二巻・咸臨丸渡米 子母沢 寛 著 より)

という事で、彼らの培ってきた知識と度量で荒波を越えて渡米する事に決まりました。

百戦錬磨の米国サイドの乗組み員は傍観せざるを得なく心配もひとしおでしたでしょうが、結局はそのナビゲータぶりに感心したとか。

しかしこの船行、並大抵ではなかったのですね。後に、死者は出るわ、乗組員の殆んどが酷い船酔い状態。正しく命懸けの船旅だったそうです。

米国サイドの乗組員達はそれでも、馴れたモノ。嵐の中を強行突破する時でも、普段と何ら変わりなく飲み食いして、体力気力は正しくスーパーマン。

ある日、その中の一人が飲料水不足のために、船内の水の使用を制限したにも関わらず、下着をゴシゴシ洗濯していた。

それを注意した、海舟配下の乗組員に対しても涼しい顔でその行いをやめない。

それが元で船内は日米険悪な雰囲気に・・・!

この時、米国サイドの長ブルーク大尉は規律違反を犯した部下を、日本サイドの罰則に照らし合わせて、斬っても良いという。言葉も違えば、考え方や習慣に大きな違いのある両国の乗組員の一触即発的状態な一場面です。

この時の大尉の毅然とした態度が、海舟とかの大尉の間に尊敬と畏敬を互いに認める出来事になったのですナ。

さて、航海に馴れない日本サイドの乗組員の中で、福沢諭吉だけは終始、陸上と変わらずにシッカリしていたということです。

また、この米国行きの折、幕府は500両程度しか捻出出来なかったと言うことで、木村摂津守は家財道具を全てドルに替えて便乗していたのだそうで。その額80,000両。

初めての米国訪問に際し、恥を掻く事は士として絶対に許されないという覚悟に、海舟は彼に対し見事な姿勢を感じていた様です。

摂津守の位人臣は勝の上司です。

しかし、渡航中は全幅の信頼を海舟に預け、終始その態度を貫き通しました。

彼の、従者として乗り込んだ福沢は、彼の乗船で命に代えてもこの企画に参加したかった。海軍操練所の仲間からは中々良いようには見られなかったのですが、立場をわきまえ、上と下、日米の間を上手く取り持ち、好感をもたれる様、立派な態度を取り続けたそうです。

サンフランシスコに到着した後も、ブルーク大尉は精力的に使節一団を幇助してくれて、米国も政府から無償で咸臨丸の補修を施してくれたのです。

しかし、それにかかった費用を使節団は潔く受け取る事は恥として補修費を払おうしましたが、米国政府が受け取らなかったので、米国海軍の軍人遺族の使節に寄付をしたと・・・。

咸臨丸の渡米計画は、海舟にとって日本海軍設立の嚆矢的位置づけだった。

欧米列強の極東進出に驚異を感じ、インドや中国に見られた帝国主義的蹂躙に当時の幕府や朝廷、有志達には今の眼からすれば杞憂を感じ、攘夷論や尊王による国家統一という騒動がおきていた折、

海舟は日本を中心とする海軍軍事力で遠い国々からの押し寄せる波を受け、大陸や朝鮮半島の隣人達と、一致強力して地勢的にも経済的にも欧米に負けない共営圏を確保したかった。

その考え方に、明治以降の西洋文化への憧憬や、帝国主義から資本主義に徐々に移行する時代の波に東の果の小さな島国が、大きな波紋を起こすきっかけとなった咸臨丸の米国渡航作戦とも言えなくはない快挙のお話し。

海舟の描いた図とは、全く異なった道を歩み始めはしたものの、この頃から日本はエコノミックアニマルと揶揄されるほどに経済的地位を粛々と築き上げる結果となったとも申せましょう。

日清・日露、一次大戦で披露したこの国の海軍力は咸臨丸以降の敗戦までに日本が発展してきた海上のパワーだったのですネ。

そのポテンシャルは今も脈々として受け継がれています。

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by mintlemonlime | 2016-11-19 11:58 | 歴史 | Comments(0)

月下の彦士

中国の春秋戦国時代、今からおよそ2500年程昔のお話しです。晋(しん)という国がありました。その国の君主 文公(ぶんこう)は覇者の一人です。有能な家臣にも恵まれました。介子推(かいしすい)、士会(しかい)等々、彼ら自身が主人公になる著作もある程です。

 今回のお話は、文公と共に長い旅を過ごした趙衰(ちょうし)の孫、趙朔(ちょうさく)の頃のお話しです。彼の父、趙盾(ちょうとん)は時の君主霊公に疎まれ、国の宰相としても特に非凡でもなくむしろ右肩下がり気味な成果しか上げられなかった少々残念な政治家でした。

 しかし、国を思う気持ちに嘘は無かった様です。疎まれた君主が謀殺された時もその挙動に疑問が残る行動をとってしまったために、どうにも後々の評価に陰を落としてしまいます。 

そんな父の葬儀に慟哭している男に目を留めた趙朔に程嬰(ていえい)は無視するようにと促す様な態度を示します。彼は趙朔の友人で身内同様に昵懇にしていた仲で、彼の父の葬儀にも参加していました。 

程嬰はその慟哭していた男を、胡散臭いヤカラだと感じたからなのです。お坊ちゃま育ちの趙朔が騙されはしないかと諌言したわけです。しかし趙朔は彼を葬儀の後、客人としてもてなすわけです。その男の名は公孫杵臼(こうそんしょきゅう)。

名前からしてなお、胡散臭い奴だなと、程嬰は一層猜疑の目を向けるのです。程嬰は公孫杵臼に対し、あしざまにののしるに等しい、罵声にも似た言を吐いたりしますが、公孫杵臼はそんな趙朔の親友に牙を向ける様な態度は示さず、のらりくらりとかわすのです。

そんなある日、晋のライバル楚(そ)が鄭(てい)を襲います。鄭という国は周王朝にとって一つのキーになる国家で、小さな国ではありますがこの時期、晋と楚の間の覇権争いの折に、時には晋に付きある時は楚に付くと言った、強国に挟まれて右往左往させられるはかない国であったのです。

 鄭を蹂躙されることは、中華の顔に瑕が付くことになるわけです。すなわち楚は南蛮の国家で中華圏ではまだ、野蛮な国としてワンランク下の国という見方をされていました。

この晋と楚の戦いは、邲(ひつ)の戦いと呼ばれ晋は大敗を喫します。この折に趙朔は大怪我を負い、程嬰も負傷します。晋は覇権を楚に奪われ、国威も失われる事になるのです。

帰国後、趙朔の具合は良くなるどころか益々弱っていく状況でした。程嬰は見舞いに訪れる度に公孫杵臼に彼の状況を伺うという事が多くなるわけです。

この戦い以後、程嬰は公孫杵臼に対する評価に変化が現れる様になります。食いッパぐれた詐欺師様な彼に対する印象が薄れて来て、信頼のおける言動を感じる様になってきたわけです。

一方、この戦いで疲弊した晋の廷内では不穏な空気が流れ始めます。その首謀者は屠岸賈(とがんか)。

彼が今でいう警察長官の立場に就き、趙遁が疎まれた君主霊公の暗殺した主犯が、趙朔の家系だと吹聴するワケです。 

これはトンだ濡れ衣で、ソコには現晋公の暗躍があったのです。すなわち、今回の戦さで信賞必罰を晋公の力で示すことが出来ず、晋公自身の権威が弱まり有力家臣団の励起で晋という国体を君主の存念で遂行する事が出来なくなってきたという晋公の焦りがそうさせたわけです。

かつて文公が出奔した折、ソレに追従した趙衰は本家筋ではなく分家筋で、文公が君主になった時点で、趙家の本家と分家の立場が逆転して本家は分家を仰ぎ見る立場に立たされました。

そんな経緯があってか本家筋は濡れ衣を着せられた趙朔に対して何の行動も取らず静観している有様。父の趙盾は息子に引き継がせる領地を削ってまで本家筋に相続させたにも関わらず・・・。 

折悪しく、趙朔は戦いで瀕死の重傷を負い余命いくばくもない状態。屠岸賈の毒牙は趙朔邸に迫って来ます。果たして趙朔の屋敷では老若男女問わず殺戮されるのですが、公孫杵臼は他の家の兵に助けられ、屠岸賈の毒牙から逃れる事ができたのです。しかし、その場には程嬰が居なかったのです。

趙朔家は滅ぼされる形になりました。そんな一件があった後日、公孫杵臼は市井で程嬰の姿を見かけるのです。そしてなじる様に彼に問うわけです。趙朔の臨終に際して何故居られなかったのか?・・・と。

程嬰は応えます。趙朔の子を匿っていると・・・。産まれて間もない赤ん坊を匿っていたのです。二人は考えます。このままだと何れ屠岸賈の耳に入る。何とかして趙朔の子を守り育てないといけない。・・・・と。

そこで二人は一計を案じるワケです。この窮地を凌ぐ事に一命を賭す者と趙家の再興を見届ける者を・・・。 

そのミッションは開始されました。先ず程嬰が趙朔家の隠し子を公孫杵臼が匿っていると屠岸賈に教える代わりに賄賂を要求したのです。没落した家に恩も義理もないとまで吐き捨てる様な芝居を打つわけです。

これには、趙朔家に誼を感じていた人々も騙されて、程嬰に対し不快の念を抱かずには居られません。

公孫杵臼は屠岸賈に捉えられ無残にも殺戮され、彼の抱いていた赤子も手に掛けられてしまうのです。 

公孫杵臼と赤子の命を犠牲にして程嬰はその後、成人するまで趙朔の子を立派に育て上げます。その子の名は趙武(ちょうぶ)。後の、晋の宰相になる人です。 

彼は立派に成長した趙武に別れを告げます。あの世で私の報告を待っている男に今、報告しないと失敗したのかと心配しているに違いないので・・・。私は彼の元へ報告しに行かねばならないと・・・。今まで自分を匿い育て上げてくれた程嬰に孝行する間も無いのかと涙を流す趙武に別れを告げ、彼は自ら命を絶つのです。 

彼の国には紀元前から、人々の心のひだや政治、易姓革命の血塗られた一面や生死をかけた凄まじいまでの生涯を記した記録が数多く残されています。 

縄文時代を持つこの国では、国家が成立するまでに長い月日を要しました。勿論、戦国時代も経験しました。しかしながら、長く平和な時代が続いたとも言われています。ただ、易姓革命が無かったのは幸いしたのかしなかったのか? 

世の中のスタンダードは、あまりにも苛烈で凄まじい一面をかの地以外でも史実として残している様です。日ノ本の国として付近の国々と繋がりを持ったこの国の起こりは、弥生人が稲作を輸入してからの事だという事です。それまで縄文時代は1万年以上の歴史があったと・・・・。

 孟夏の太陽 (文春文庫) -
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by mintlemonlime | 2016-11-05 08:18 | 歴史 | Comments(0)

孫子

「孫子読みの孫子知らず」などと揶揄される様に、孫子の兵法は有名なのですが、その読解や応用が難しい事でも知られています。

孫子、中国大陸の戦国時代に活躍した兵法家。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の教えは有名ですネ。
講談社文庫刊 海音寺潮五郎 著 の 「孫子」 は強烈な印象を放ち、読者にその印象が孫子へのイメージとしてフィックスされてしまいます。そういう人物だったのだと脳裏に固定されてしまうという事です。

当時の戦いは、戦士同士の戦いというのが基本で、その国の住人が参加しての戦争ではなく、無差別な乱闘では無かったそうです。とは言え、住民にとってはその武器で脅され、命や財産も奪われたこともあったでしょう。勿論、兵への規律は厳しくソレを犯した者には厳罰もあったのも事実だそうです。無差別な殺戮は基本的には無かったと・・・。

春秋戦国時代以降、戦争はそのタガが外れ根絶やしにするまでの勢いをもって、敵を蹂躙し地上から消滅させるという虐殺行為へとヒトはその行為をエスカレートさせて行くワケです。タタールのくびき、アウシュビッツ、などに込められる人類の恐ろしい行為などが想像されます。

話しはそれましたが、かの作家の描いた孫子はその先祖が生国を離れてその国へ亡命した一族だったそうです。これは史実に基づいた事実なのだそうで・・・。

その地で慎ましい生活を送りながらも、孫氏は古戦場や有名な戦に興味があって、独学で戦いを研究していたと・・・。しかし一旦、国の長に招聘されその辣腕を振るった時、あまりに苛烈で厳しい戦への向かい方に、その国の長も辟易しましたが、彼の活躍で国は繁栄を手にします。

折を図って孫子は引退を表明し、元の生活に戻ります。長居は無用の立場だと彼は承知していたからだと・・・。戦で国を富まし、栄誉を授かりはしますが、その先の運命まで洞察していたのが孫子だったのですネ。

孫子の兵法はあまりにスタンダードで、読み下していけばスラスラと読み終えられて、当たり前な様な文章に思われるそうです。それは含意があまりにも多くて密であるから、それらを常人は一滴残さずくみ取れないがゆえに中々読み解けないという事も事実なのだそうで・・・。

兵法書は生き残るための書。敵に勝つための書。裏をかき、時に欺いてでも勝ちを手にせねばならぬ非情の書。故に詭道と言えましょう。出来れば兵法を使いたくないと思う人情も、戦いの中では騒音と土煙でかき消されてしまって兵士は、正しく獲物に向かう兵隊アリやスズメバチを想像させます。

ちなみに、孫子は時代を違えて二人が有名です。

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by mintlemonlime | 2016-10-27 11:20 | 歴史 | Comments(0)

范蠡(ハンレイ)

「天勾践を空しゅうすること莫れ時に范蠡無きにしも非ず」

「テン コウセンヲ ムナシュウスルコトナカレ トキニハンレイ ナキニシモアラズ」太平記で有名な一句。


幽閉された後醍醐天皇へ児島高徳が思いを込めた詞です。


范蠡は呉越同舟で有名な越の国の兵法家として知られています。越王句践の下で呉に大打撃を与えた天才的な兵法家という印象があります。


呉に伍子胥や孫子が存命で活躍している間は、越に日の目を見られる機は薄いと知るや句践に辛抱を訴えます。臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の由来は富に有名ですネ。


更に " 西施のひそみにならう " の西施もこの時期頃に活躍した絶世の美女。この頃の呉越に故事は、事欠きません。


范蠡はまるで孫子を倣うかの様にその引き際も見事でした。兵法の書「孫子」を知る兵法家の一人だったのですネ。


兵法は危うい劇薬の様。仕様に誤りがあればその禍は己が身に降りかかってくるという事なのでしょうか?


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by mintlemonlime | 2016-10-26 13:07 | 歴史 | Comments(0)

人生を賭けた自己実現

今から2,700年ほどの昔、今の中国でのお話です。その男は、故国を隣国に冒されて一時は、滅亡した故国を、父の遺言に従い機を見て興った亡国の民の再建の挙に参加して、その戦いに一国の滅亡と再建を忍耐で覆した事実を目の当たりにして、これを以て己が持論を遊説して自己実現を達成すべく、活動を開始します。

彼は天下国家を動かすという自己実現を果たすために、一人旅を始めるわけです。時には、行き倒れ同然の所を異国の名も知らぬ邑人(むらびと)に救われたりしていくつかの国を経巡り、当時大国の一つ斉(せい)国に再び辿り着きました。

この国なら、故国のような小さな国ではなく、自前の構想で中国一の国に出来ると、自信満々での遊説だったのでした。それ以前この国を訪れた際、生涯の友とも出会っていました。その友人は斉でも名家であった家の次男坊、名は蹇叔(けんしゅく)といいました。彼等は、互いにどことなく気の合う者同士の間柄になるのです。

彼、蹇叔の家に厄介になりながら、斉の国で彼は就職活動に奔走していたわけですが上手い具合にはならなかった。その友の家格をして手掛りを掴めないかと蹇叔に依頼してみると・・・、「大言壮語する割には、仕えるのが誰でも好いというような態度ではこの先、天下国家を唱えられる器とは決して思われず、人はお主を蔑みこそすれ、期待などせぬヨ。」と辛らつな返事。

「お主の様な良家の喰うに困らぬ者には、俺の必死の思いは分らんのだ。」とステ台詞を残して、彼は斉を出て再び旅を続けるわけです。ココから彼は、中国の南方一体を遊説して回ったのですが、結果は失意だけ。当時のその辺り一帯は排他的で、中々相手にはして貰えなかったわけなのです。

そこで、仕方なく彼は思うわけです。やはり自分が活躍できるのは、中華でも進取の国々にしかないと・・・。彼は再び斉へと足が向くのですが、その途上ついに飢渇して行き倒れの所を救済される羽目に・・・。

再度、斉へ入国しようと思いきや、今度は検問に会ってしまうのです。つまり、身元が分らない者は今、この国には入国出来ないと・・・。致し方ないので、シブシブ半ば喧嘩別れのようになってしまった友の名を挙げるわけです。蹇叔は快く再度、彼を迎え入れるのです。

蹇叔曰(いわ)く「よくも生き抜いていたものだ」彼曰く「天がある限り、俺は不死身なのさ」とうそぶく始末。結局、彼は再び蹇叔の世話に。そこで彼は聞くわけです。この検問の仰々しさは何ぞやと。この時、斉は、彼の故国を滅ぼした国の君主と戦をして、その国を討ち果たしていたのでした。そんな事があって、外国からの人々の入国には、用心していたのです。

彼は、蹇叔のもとで再び客人のような生活を送るわけですが、たとえ名家の子息とはいえ、蹇叔にしてみても、変わり者である事に思い至るわけです。というのも、蹇叔自身、彼に何も求めはしないものの就職の斡旋をするわけでもなく、そんな処もあってどこかつかみ所のない友でもあったわけです。

そんな折、彼に笑みが。「やっとお主に、厄介をかけずに済みそうだ」と蹇叔に話しかけます。「就職口が決まったのか?」・・・「公孫殿の世話になる」・・・「公孫というと、あの公孫無知か?」蹇叔は眉をあげて聞き返します。公孫無知とは、先代の斉の君主の弟の子。蹇叔は一抹の不安を覚え、彼に言います。「死人に仕官する気か?」

彼にしてみれば、喜んでもらえると思っていたのに、逆に血相を変えて反対するのです。「公孫無知は今、この国で最も評判の良い人物ではないか」と反論するのですが、土地の人間だけに蹇叔は、彼の過去もよく知っていて、公孫無知の羊の衣を借る狼のごとき本性を見抜いていたのです。

更に、蹇叔はその仕官話を彼に代わって、丁重に断りにさへ赴く訳です。そして蹇叔は、彼に聞くのです。「小白(しょうはく)や糺(きゅう)なら判るが、何でまた公孫無知などの処になんぞ足を運んだのだ」小白も糺も今の斉の君主の公子なのでした。

彼は頭を横に向け、答えるわけです。「両者には姫姓の血が流れている。我、故国を滅ぼした血だ。誰が奴等なんぞの処へ行くものか」とうそぶくのです。「ははぁ、さては彼等には仕官を断られたな」と蹇叔は、想到します。実は、正にその通りだったのですね。しかして公孫無知の活動は、蹇叔の予想通りになるのです。この後、クーデターを起こすのですが失敗して公孫無知は、憤死するのです。

実はこの時、斉は覇者出現、胎動の時期だったのです。この後斉では、桓公と管仲の君主と名宰相の出現で、斉は隆盛を極める時期に突入するのでした。その折での仕官工作が失敗したと蹇叔は、想像したわけです。

その後時期が経ち、不思議なことに今度は蹇叔の方から旅に出ようと彼の尻を叩き始めるのでした。そして、斉国内での政変(小白と糺の次期君主の座争奪戦)が勃発して・・・。彼にしてみれば、想像は一部的中、一部は蹇叔の想像通りの結末に。本来なら、諸国遍歴の旅に少々辟易していた彼も、蹇叔の誘いを受け入れるしか、活路は見出せないことに思いが至るわけです。結局、二人はこの時から、長い旅を、始めことになります。彼は、齢50を越えていました。

二人は周を訪れ、彼はその国の王子頽(たい)に仕官したのです。その採用の内容は、牧人。つまりは牛の世話。しかし、ここでも蹇叔は彼の仕官活動に懸念を示します。周国内の情勢をつぶさに観察していた蹇叔は、彼に言います。「どうやら王子頽の立場は、危うい」このままだと、彼の身にも危険が訪れる可能性があると・・・。早くこの国から去った方が良いと言う事を、強く勧めるのです。彼の強硬な説得に、シブシブながら従い、二人はこの地をあとにします。

そして、案の定、王国に政変が。その乱で王子頽を擁立する勢力が、一時勝利を修めるのです。彼は、蹇叔に少々非難めいた口調で、今回の周国脱出に関しては失敗ではないのかと問いただすのですが、蹇叔曰く、王子頽の勢力のほとんどは、周から距離のある他国の軍事に依存しているので、反対勢力はそれらの力が撤退した時、王子頽は滅びる事を予感していたわけです。果たして彼の予感は的中するのです。彼等の仕官巡遊の旅には、梁塵(りょうじん)の如(ごと)く年月が降り積りました。そして、仲のよかった二人に決別のときが訪れるのです。

その場所は、虞(ぐ)。この国は、強国に挟まれた小さな国。その危うさに蹇叔は、ココでの仕官はせぬ方が好いというのですが、彼はココでキカン気を発揮するのです。半ば長い旅に疲れた様子と焦りがないまぜになったのかもしれません。結局涙を拭い彼は、友の後背に無言で語りかけるのです。「ゆるせ、蹇叔。」

さて、この地で骨を埋める覚悟の彼は、十数年食録を得るわけですが、事件が発生します。この国の、大夫、宮之奇(きゅうしき)が語った名言「唇亡べば歯寒し」・・・虞公に諫言した有名な台詞。しかし、その諫言は虚しく宮中に響いたに留まりました。はたして、虞は強国の手玉に取られて、滅亡、そこで仕官した彼は、奴隷として使役される立場に・・・。

何という結末。彼は晋という国の君主の娘の下僕として、彼女と共に秦国へ向うのです。ところがその国で、晋の公女の下僕の一人の男の才能に気が付いた秦の家臣がいました。当時の秦は君主に任好(じんこう)を仰ぎ、これから国家としては中華を代表する国々に追いつき追い越せの立場にあった、興進の国だったのです。君主の任好自身、明徳を好み進取の気概に富んだ、人物でした。

彼の家臣に、禽息(きんそく)がいました。彼は、晋の公女の下僕に一際光彩を放つ、優れた男がいて、何とあれ程強欲な晋君が見抜けず、タダ同様でこの国に下僕として届けてくれたこの好機を逃せば、国家の損失は計り知れないとまで訴えて秦の君主、任好に彼の斡旋をアピールするのですが、多忙の君主は彼の言葉を中々汲み取ってはくれなかったのです。

しかし、禽息は諦める事なく憤怒とも思える語調とこの国を思う強い態度で吐血してまで、つまり死をも恐れぬ態度で命を賭して、任好に訴えるわけです。さすがに、秦の君主もそれには気を止めずに入られなかった。早速、その下僕に面会させようとしたのですが、彼は脱走していたのです。今度は逆に、任好が諦めきれずに捜索隊を組織して、当てのない国外に派遣するわけです。

果たして、脱走した下僕は、南の国、楚の付近で見つかるのですが、彼を取り戻すのには、大事件にしてはいけないことを知って、そもそもその脱走した下僕は、我が国に嫁いだ晋の公女のものであると強行に談判し、わずか羊5頭との交換で取り戻すわけです。

一見した処、脱走した下僕は貧相で活力の欠片もない年老いた男なのですが秦の君主が直々、厚い礼を以って彼に接するのです。一歩間違えば笑いものにされない図です。乞食同然の老人に国のトップが頭を下げて、接見を乞い、話を聴こうとしているのですから。

しかし、彼との談義は一日では足りず、二日経ち、三日経って、任好は深い感銘を覚えるのです。この時から、五羖大夫(ごこたいふ)、百里奚(ひゃくりけい)が、秦を中華の強国にするために、手を差し延べる事になります。さて、この老人秦の君主にもう一人も逸材の探索を依頼します。任好は電光石火の早業でその逸材の招聘に成功します。その逸材の名は、蹇叔。

蹇叔は友、百里奚が仕官した先、秦で五羖大夫とあだ名されている事に、彼の立場と周辺からの注目のされ方に感動すら覚え、その国の招聘に従うのです。二人をしたがえた秦の君主、任好はその後、強国である晋を滅亡寸前にまで追い込み、付近の民族を平らげ、秦を強大国に築きあげるのでした。百里奚は、ヨワイ90を以って、自己実現を達成したと言われています。

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by mintlemonlime | 2016-09-03 13:49 | 歴史 | Comments(0)